Fairy Tale １１
幾重にも重ねられた、魔法の防壁。
そうして、険しい岩山。
そんなものに、妖精の里は守られている。
その外に出るのは、カガリのような物好きか、キラのように必要のある者だけだ。
衰退を続ける妖精の一族は、自らを守るために、この里の中に閉じこもる。
その防壁と岩山を、キラは軽々と通り抜け、そうして、里の外へと降り立った。
岩陰には、まだ所々に雪が残っている。
しかし、木々には若葉が萌え出でて。
大地には柔らかな草が、鮮やかな緑を見せていて。
風はまだ少し冷たいけれど、それでも冬とはまったく違う、生きた匂いを含んでいた。
春だなぁと、キラは思う。
そういえば、アスランと初めて会ったのも、ある春の日だった。
ピンク色の花をいっぱいに咲かせた木の下で、笑うアスランは綺麗だった。
キラは、腕の中のアスランを見下ろす。
僕たちは、あそこから、とても遠くへ来てしまったね。
遠すぎて、もう帰ることは出来ないけれど。
繰り返す季節の中で、隣にいることは出来るから。
できる、はずだから。
「シン、いないの？」
キラは、ケルベロスの名を呼んだ。
シンの気配はたしかにあった。きっと、近くにいるはずだ。
「シーン」
遠くから、しぶしぶという速さで足音が近づいてくる。しかし、それはある距離を境に急に飛ぶような早さになった。
きっと、アスランの匂いに気が付いたのだ。
「〜〜〜〜〜〜っつ！わうっ！！」
そうしてあらわれた獣は、キラの前に飛び出すなり、腕の中に青年に鼻先を寄せ、たちまち人の姿を取った。
「アスラン！？」
「うん」
「アスラン、アスラン！！」
必死に呼ぶシンの声に、眠っていたアスランは瞼を震わせ。
そうして、ゆっくりとあらわれる、翠玉の瞳。
「シ、ン・・・？」
口の端に浮かぶかすかな笑み。
そうして、左手がゆるゆると上がり。
それから、右手が。
アスランの、右手が。
震えながらも確かな動きで、そっと、シンに伸ばされた。
「アスラン！」
がばり、と、シンの方が先にアスランにしがみ付いてしまったけれど。
それでも、アスランの両手は、確かにシンの背に添えられた。
夢にまで見た抱擁。
嬉しくて、どうにかなりそうだ。
もう二度と、会えないと思っていた。
会えなくても、アスランが助かるのなら。
仲間のもとで、幸せになれるのなら、それがいいのだと思っていた。
でもやっぱり会えて嬉しい。
両手で抱いてくれて、凄く、嬉しい。
「アスラン、アスラン・・・」
「君ね、アスランを抱き潰す気？」
呆れたようなキラの声に、慌てて力を緩めても、アスランはじっとシンを抱いていてくれた。
キラは既に、アスランをシンに寄越してくれていて。
腕にかかる重みさえ、嬉しくて。
温度を取り戻した頬に自分のそれを寄せて、濡れた感触に、自分が泣いていることに気がついた。
両手はアスランで塞がっている、だから、シンは涙を流れるままにしていた。
だって、だって。
こんなに嬉しいんだもの。
それを、アスランに使えたくて、何か言おうと口を開いた時だった。
「シン、たべて・・・」
うっとりと囁かれたその言葉に、凍りついた。
まじまじと、アスランの顔を見下ろす。
嬉しげに細められた瞳。
笑んだ唇。
それが、動いて。
「キラ、が。叶えて、くれるって」
そうして、頬より少し冷たい額が、シンの腕にすり寄せられた。
間に入った髪が、さらさらとシンの腕を擦る。
「お前の夢、見たかった。両手で抱いて、そうして、食べてもらうんだ・・・」
「アスラン」
それは違う、と、キラがそう言う前に、シンが大声で吠え立てていた。
「嫌だ！」
大きく大きく、まるで、小さな子供が駄々をこねるように。
「いやだ！いやだよ！！夢なんかじゃなくて、ずっとずっと抱いててくれよ！」
その声が、体中に響いて。
アスランは、まだ少しかすむ目を見開いた。
真っ赤な瞳が、ぼろぼろと涙をこぼして、真っ直ぐにアスランを見つめていた。
アスランの、大好きな赤。
シンの瞳。綺麗だ。
そこから、やっぱり綺麗な水が、流れて落ちて、彼の頬を伝い、ほとほととアスランの頬に落ちてくる。
あたたかい、水。
その感触にはっとする。
体を支えているのは、細いけれどもしっかりとした腕。
いっぱいに感じる、彼の体温。
熱い。
「シ、ン・・・？」
まるで、初めてその名を呼ぶように、アスランは唇を動かした。
喉がかすかに痛む。唾を飲む。瞬きをする。
些細な動作ひとつひとつが、まるで生まれて初めての行為であるかのように、新鮮で、ぎこちない。
けれども確かに。
自分はここにいる。
シンの、腕の中に。
なんとか頭をめぐらせると、キラの姿が見えた。
あんまり育っているので、びっくりした。
「どこ見てんですか」
言われて、シンに視線を戻し。
さっきとは打って変わって不機嫌そうに眇められた目に、また、驚いて。
「ゆめ、じゃ・・・」
ないのか？
そう聞く前に、再びくしゃりと顔を歪ませたシンにキスをされた。
深く、深く、キスをされた。
そのキスで、馬鹿なアスランでも、わかってしまった。
これが、夢ではないことを。
「うぅーーっ、アスランだぁーーーっ！」
本気で泣きに入りながら、ぺろぺろと顔中を舐めだしたシンに呆然と身を任せ、それからアスランは、彼の黒髪を確かめるように撫でて、聞いた。
「お前、どうして・・・仲間のところに、戻ったんじゃなかったのか？」
「戻れるわけないじゃないですか！あんたがここにいるんだから！」
そう怒鳴られて、ごめんと謝る。
それから慌てて何故かと聞いて。
また、泣きはらして白目まで赤い瞳に睨まれた。
「なんでって、あんた置いて行けるわけないじゃないですか！」
置いて行けない、と、彼は言った。
置いて行かない。
棄てて、行かない。
「行かないっていうか、行けないから、その子」
そうして後ろから声を掛けられて、アスランはまた無理やり頭を上げた。
上げて、すぐにシンに引き戻される。
「言わなくたっていいだろ！」
「駄目だよ。言わなくちゃいけない。・・・シンはね、君を助ける代償に、命を差し出すって約束したんだ」
「シンっ」
アスランの強い声。怒られるってわかってた。でも。
「命って言ったって、ここを守るって約束しただけだよ」
なんでもないことのように言い換えたシンを遮るように、キラが声を高くする。
「命を賭した、血の契約だよ。この地の水や、妖精の力や技術や。そういったものを狙う人間が、近頃随分増えているんだ。
人は栄えて、そうして妖精や幻獣は衰退しているからね。だから妖精の里を守る門番はいた方がいいし、強ければなお有り難い」
キラの言葉を反駁し、もう一度シンを見上げたアスランに。
「だって、妖精の里守るってことは、あんた守るってことだろ？だったらそれ、俺したいし。凄く、したいし」
そう言って笑った、ケルベロスの少年。
その後ろから、キラのため息が聞こえる。
「アスラン、君は半分人間だから、住むのは里の外れの僕の家になるからね。もう少し元気になれば、ここと行き来する方法を教えてあげるよ」
「え、何！会ってもいいの！？」
「仕事はちゃんとしてよ」
「当たり前だ！」
「・・・待て、キラ、シン」
勝手に話を進めるキラに、アスランは硬い声を向けた。
硬い、そうして必死な声。
「その契約、俺が代わることは出来ないのか？」
「アスラン？」
首を傾げるキラに、アスランは本当に必死で言い募った。
「シンの代わりに、俺がここの守りになる。何故だかはわからないが、右手が動く。足もだ。訓練すれば、きっとまた動けるようになる。なら、俺が戦える。だから・・・、シンを自由にしてやってくれないか？」
シンの腕を掴み、必死に体を乗り出して。
そんなアスランの望みを、キラは簡単に蹴った。
「無理だよ。契約は成立しているもの。肩代わりもすり替えも無理」
「そんな・・・」
一気に力を失ったアスランの体を、シンはそっと抱き止めた。
そっと、そっと抱き止めた。
いつも、シンのことを一番にしてくれるアスラン。
愛しさで、胸がいっぱいになる。
「あんたの気持ち、嬉しいけどさ。でも俺、幸せだよ。ずっと両手で抱いてもらいたかったの叶ったし、仕事はあんた守ることだし。それに会ってもいいって・・・ああそうだ、俺、アスランと伴侶になるって約束したんだけど、それはダメ？」
キラに向かって突拍子もないことを言い出したシンに、キラは「えー」と心底嫌そうな声を出した。
「何それ、正式な誓約？アスラン了承しちゃったの？」
「ああ、そういえば・・・」
そんなこともあったような。
「それじゃあ仕方ないな・・・でも、まだアスラン、しばらく里のほうにいないと駄目だからね？体が完全じゃないんだから！」
自分を見下ろす紫の瞳。
その真剣さに、アスランは何故か、酷く申し訳ないような思いを感じた。
しかし、それを言葉にすることはできず。
ただ、頷いて。
「え、それアスランと一緒にいてもいいってこと！？」
「夫婦なんじゃ、仕方がないじゃないか」
「やりい！」
シンは、ぎゅーっとアスランを抱きしめた。
アスランはそれに応え、やはり、弱いながらも力いっぱいにシンを抱きしめる。
もちろん、両方の手で。しっかりと。
「俺、絶対あんた幸せにします。もー絶対泣かせたりしないから！」
「・・・・ああ」
「あのさ、そういうのは僕のいないところでして欲しいんだけど。ほら、アスラン。もう戻るよ」
「えー？なんで！」
「だから言ったでしょ？アスラン、まだ体がちゃんとしてないの！」
ぶーぶー言いながらも、シンは出来るだけ丁寧に、キラの腕へアスランを返した。
渡されざま、アスランはシンの頬にキスをしてくれた。
そんな些細なことが、どうしようもなく嬉しくて。
「元気になったら、この辺案内してあげますね。俺詳しいから！」
あんたの目と、同じ色の湖を見せてあげる。
どこよりも、気持ちよく走れる丘を教えてあげる。
地の果てまで見渡せる、山のてっぺんも連れて行ってあげる。
目を輝かせたシンに、アスランは軽く頷いて。
「ああ、頼むよ」
そうして、半妖精と、獣の子は笑い合う。
見上げた空は、青く。
大地は緑で、輝くように明るい。
夢にまで見たこの地で、ふたりは、幸せになるのだ。
それはまるで、絵本の
『そうして、ふたりはいつまでもいつまでも、幸せに暮らしました』